文:香原斗志
このオペラの監修で、ピアノも演奏するウバルド・ファッブリ氏は、ヴォーカル・コーチとして、すでに伝説的な存在である。その経歴を辿り、鋭い見識に耳を傾ければ、オペラが魅力的であるために必要なことはもとより、いまのオペラ、およびオペラ歌手に欠けていることから、いまニーノ・ロータの作品を取り上げる意義についてまで、本質的な理解が得られる。縦横に語ってくれたファッブリ氏の生も声を届けたい。
アドリア海に面した港湾都市リミニに生まれたファッブリ氏は、ロッシーニの故郷であるペーザロの音楽院で、続いてミラノでピアノを学んだが、かなり早い時期から歌手との仕事を始めたという。
「サルヴァトーレ・サッソという先生のオペラの全レパートリーを1年で習い、オペラが大好きになったんです。そしてアルベルト・ゼッダ先生の導きで、1986年からペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル(ROF)で働きました。ゼッダ先生が音楽院で《セビーリャの理髪師》を指揮した際、私がチェンバロを弾いたことから始まり、ロッシーニ・アカデミーにも深く関わりました。ROFでは伴奏ピアニストばかりでなく、照明の監督から舞台監督、合唱指揮まであらゆる仕事を経験し、ほかにもフェッラーラのフェスティヴァルでクラウディオ・アッバードと、チッタ・ディ・カステッロではゼッダ先生と仕事を重ねました。ROFではルチアーナ・セッラやマリエッラ・デヴィーアをはじめ、偉大な歌手の演奏にも接し、ジャン=ピエール・ポネルやグレアム・ヴィックらすぐれた演出家とも仕事をしました」
劇場のあらゆる面に関わった経験は、その後の大いなる助けになったという。
「また、一流の歌手にも欠点があることに気づき、それは言葉に関する場合が多かった。特に外国人向けの学校でも教えはじめてからは、イタリア語の発音についての課題を深めていきました。そして、イタリア語の韻律や分節といったことを、どう身に着けさせるかを追求し、メソッドを確立しました。私のメソッドは、これまでだれも気づかなかったような細部にまで及んでいて、それは17世紀にオペラが誕生して以来の課題、“音楽と言葉”の関係を基礎にしています。言葉を理解してはじめて、そこに表情を与えることができる。現在、それについて本を書いています」
1986年から2001年まで15年にわたって関わったROFについて、もう少し語ってもらおう。
「1968年完成の《セビーリャの理髪師》の批判校訂版をはじめ、ゼッダ先生の業績がROFの基礎になっています。先生は、それまでプッチーニやマスカーニと同じような様式で演奏されていたロッシーニの音楽が、オーケストラをはじめ、もっと軽やかに演奏されなければいけないと気づき、そう証言する書籍を発見するところから始まっています。そして、ROFの業績の刺激を受け、ドニゼッティらほかの作曲家についても、音楽学者が歴史的な演奏法を蘇らせるというムーヴメントができました。私はゼッダ先生とともに、そうした渦中を過ごし、世界中のすぐれた歌手たちと仕事をできて、幸運でした」
ペーザロに別荘を構えていたルチアーノ・パヴァロッティとも交流があった。「ピアニストを務めてくれないか」と、はじめて電話をもらったときは、あまりに小さな声でそれがパヴァロッティとは気づかなかったという。「パヴァロッティといえば大きな声だと思うじゃないですか」と語るファッブリ氏、その後は、深く交流したという。
「彼は話すときは声を節約し、張り上げないんです。しかし歌声は、私が言うまでもなく本当にすばらしく、かけがえのない質感があり、常に正しい1点にしっかりと焦点が当たりました。お茶目なエピソードがたくさんあって、たとえば朝起きるときは、南米の人、北米の人、そしてアジアの人と順に話して、全世界から起こしてもらうんですよ」
さて、本題に戻ろう。ファッブリ氏は上に記したメソッドを伝えるべく、2000年からマンハッタン・スクール・オブ・ミュージックやジュリアード音楽院をはじめ、世界各地でマスタークラスを開催している。引っ張りだこなのである。
「私のメソッドを実践して、すばやく成果が表れることが多いのです。あるマスタークラスでは、一人の歌手に二つのことを指摘してから歌ってもらうと、見違えるようによくなった。何年も改善できなかったことが、一瞬にして改まるのは、本当にうれしい。マンハッタン音楽学校では、あるバリトンに母音と子音の問題を指摘すると、5分後にはしっかりアリアが歌えた。こうしたことがよく起きることが、満足感につながっています」
そして、歌手たちに「音楽と言葉の関係について伝えていきたい」と情熱を語る。
「言葉の問題は軽視されることが多いのですが、オペラは複数の要素からなる総合芸術です。詩も、音楽も、ダンスも、舞台美術も、それだけで成り立ちますが、オペラはそれらを詰め込んで力を得るもの。だから魅力的なのであって、音楽だけを重視せず、言葉の韻律にも価値を見出して、はじめて感情が表現されるのです。ところが驚いたことに、偉大な指揮者でも言葉をなおざりにする人がいて、言葉は2階に上げてしまう。本当は音楽も言葉も一緒に1階に置かなければいけないんです。モーツァルトのレチタティーヴォなんて実に魅力的ですが、平気でカットされます。こうしたことを伝えていきたい。歌い手が正しいヴォーカル技術し、発展させられれば、必ず聴衆の理解を得ることができます」
では、日本人歌手はファッブリ氏にどう映るだろうか。世界で活躍する人材がもっと輩出してほしいが、彼らにどんなメッセージを送るだろうか。
「私が思うに、問題は表現力にあって、表現力の土台は正確極まりないアーティキュレーションです。それには発声だけでなく発語が重要で、私が聴いてきたかぎりでも、表現力豊かな正しいフレージングに欠けるように感じます。最大の問題はイタリア語に関することですね。たとえば『ウ』の発音が苦手です。音韻の癖は0歳から2歳くらいの間に身につくので、修正が難しいのですが、私はそこに日本文化の特徴を加えたい。日本人はイタリア人が感情を表に出すようには出しませんが、オペラはすべての感情を、大げさなくらいに外に表出する芸術です。もちろん、こうした能力がある日本人をたくさん知ってはいますが、おそらく音楽学校のカリキュラムを変えたりする必要があるのでしょう。日本に来るたびに、同じ問題を感じますので」
実は、こうした問題を解決するカギのひとつは、ニーノ・ロータのオペラにもあるようだ。
「ロータは天才で、私は彼の力を崇拝します。音楽と言葉の関係についてお話ししましたが、彼は新しい形で、この問題に向き合った作曲家です。たとえば、今回上演する3つのオペラには、ブギウギやジャズ、ブルースなども取り入れられていますが、彼はそこにイタリア語の韻律を踏まえながら、しっかりと言葉を差し込み、しかも、それがイタリア・オペラについての極めて深い理解に裏づけられています。3つのオペラには、あらゆる作曲家からの引用がありますが、それらは音楽と言葉が正しく書けた美しい表現なのです。音楽と言葉の関係。それはニーノ・ロータのオペラにおいては完璧です。また、これらの作品はオペラの歴史を語るうえで重要です。イタリア・オペラの歴史はプッチーニで途絶えたようにいわれますが、正しくありません。ロータの作品に偉大な価値があるのですから」